池田 秀人

中標津支部の「池田秀人」と申します。青年部では、監事を仰せつかっています。本日は、この様な機会を与えていただいたのですが、語り部と言っても、ほとんど経験がありません。お聞き苦しい点もあるかと思いますが、しばらくお付き合い頂きたいと思います。

実は、語り部に登録されていながら、私自身は母の故郷である国後島に渡った経験はありません。ですから自分の体験を語ることができませんので、今日は、母や叔父・叔母から聞いた話と、青年部の活動を紹介させて頂きたいと思います。

さて、母は昭和11年(1936年)国後島泊村で9人兄弟の上から4番目、次女として生まれました。終戦時は、両親と兄弟のうち7人が、おじさんの家族と一緒に暮らしていたようです。住んでいた自宅の周りに、他に民家は無くポツンと自分の家だけがあった、と言います。自分の家の敷地内に川が流れ、時期になるとその川にも秋味が遡上していました。よく、北海道の川を遡上する鮭の様子を、『川に棒を立てても、倒れない』という言い方をしますが、正しくそれを身をもって体験したと、話します。よく兄弟で、手づかみしたとのことです。

日本は、昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受諾し終戦を宣言しましたが、その時、母は9歳、小学校4年でした。
<侵略地図表示>
この図から判るように、ソ連は、終戦の3日後、8月18日から侵略を開始し、母の住む国後島にも、9月1日から4日にかけてやってきました。この時、自宅にもソ連兵が3名、土足で入り込んできました。鬼のように大きな体で、訳のわからない言葉で大声で怒鳴りながら鉄砲を構えていたようです。恐怖で呆然とし、体が動かなかったと話していました。

そのソ連兵は、数日に渡って滞在していたようですが、その間、一度たりとも鉄砲を手放すことはなかったと言います。寝るときは、交代で、鉄砲を持ったまま床に腰を下ろすだけ。それでも、9歳の女の子の特権とでも言うのでしょうか、兄弟の中で、母だけがソ連兵から「黒パン」をもらって食べていたそうです。

母の記憶でははっきりしませんが、伯父や叔母に話を聞くと、かなり寒く、雪の舞うような時期の夜中、船で島を出ました。見つからないように、と言うことだったのでしょう、交代で船を漕ぎ、遠く島を離れてから船のエンジンを掛けたようです。一番下の弟は当時1歳で、泣き声を発てないようにと、母は寒さも忘れ、真剣にあやし続けました。

最初は根室を目指したようですが、海が荒れそれを断念して、おばあちゃんの実家があった尾岱沼に上陸したようです。途中は危険を感じたという事で、馬を乗せた船を切り離して諦めたという事でした。ソ連兵に見つかるかもしれないと言う恐怖と、寒さのため、命からがら逃げるようにして、島を後にしました。

私は、こんな話を幾度となく聞いてきましたが、母は話をする際、必ず「家があった場所は、ポンタロだ。」と、言い切ります。私も、北方領土に関連する施設に立ち寄った時など、事あるごとに、「ポンタロ」を探しました。書籍や、インターネットでも調べました。しかし、見つかりませんでした。

ところが、連盟の名簿と連盟が発行した居住図によって、母の生まれた土地、母の故郷の正式な名前を知ることができました。勿論、家族の名前は連盟の名簿には記載されていましたが、出身地は「国後島 泊村クシナイ」。
<名簿表示>
<地図表示 地図説明>
母の記憶にあった通り、周りに民家はなく、すぐそばに「クシナイ川」が流れていることを、地図で確認することができました。

母方の実家は、引揚後、今でも尾岱沼にあります。
<標津・海写真表示>
父と結婚した後、中標津町に住むことになったわけですが、当然、中標津と尾岱沼を行き来する際、帰る事のできない自分の故郷を目の前に見ていたのだろうな、と思います。

では、母の記憶にある「ポンタロ」とは何なのでしょう?

母の記憶にあった「ポンタロ」は正確な名称ではなく、正式には「ポンタルベツ」で、そこには母の祖母、私にとって「ひぃばあちゃん」が、住んでいたこともわかりました。地図には片仮名で示されていますが、叔母さんの話だと、当時は「本樽別」と、漢字で表記していたようです。
<グーグル地図表示>
母が言うには、泊の学校へ毎日歩いて通い、夜になると泊の灯りが浜沿いに見えていたとのこと。恐らく、平日はおばぁちゃんの家から学校に通い、休みの日には、自宅に戻っていたのではないかと思います。

母は、今年78歳、もうすぐ80歳になります。その母に地図を指さして、「ここが生まれた場所で、クシナイだ。」と、説明するには難しいものがあります。現状で、自由に島に渡ることができない状況では、母に生まれた場所の説明ができません。また、自分の生まれた場所、育った場所の名前を、ずっと間違えたまま覚えていた事について、本人がそれを確認する術がなかったことは、到底自然なこととは思えません。

「島に自由に渡り、いつでも自分の故郷を確認できる環境を整える。」
そんな状況になることを、願ってやみません。

とはいえ、願っているだけでは何もできません。島が不当に占拠されて69年が経過し、今なお自由に行き来することができない。母は、きっと今でも、ポンタロが自分の家だと信じています。そんな現実がある以上、島が戻るまで、どんな状況であろうと、誰かが返還運動を続けなければいけません。

私は、平成14年、中標津で開催された「現地青年の集い」に誘われたのがきっかけでこの返還運動に携わるようになりましたが、実際のところ、自分に何ができるのか判りません。しかしながら、この10数年携わってきたことが少しずつ成果を上げていることもあるのだと思っています。

現在中標津支部青年部では、3つの事業を柱に活動しています。
<事業紹介表示 落語まで 事業説明>
これらの活動は、どれも直接的に島の返還に繋がるものではありませんが、連盟の外に対して情報を伝える手段としては、非常に効果的だと思っています。

今年2月、安倍総理のロシア訪問で、この問題が進展すると期待されましたが、クリミア問題の影響で停滞感がぬぐえません。しかし、拉致問題や竹島・尖閣の領土問題同様、北方領土も毅然とした対応で、交渉してほしいと思います。

そのためにも、現状をより多くの国民に知ってもらうことは、重要な返還運動の一つと考えています。同時に、情報を伝える手段の一つとして、インターネット・ITを活用することは、有効であると思っているわけですが、もし、自分自身でもできる返還運動があるとするならば、このような活動であり、それが自分の役割なのではないかと、思います。みなさんも是非、「日本の領土問題」として認識していただき、関心を持っていただければ幸いです。

<最後表示>
お聞き苦しい点はあったと思いますが、ご清聴いただき、ありがとうございました。

宮脇 田鶴子

皆様こんにちは。宮脇田鶴子と申します。
先ず自己紹介をさせて頂きます。北海道は道 東、東の方に根室管内と言う所がありまして、 世界遺産があります羅臼町、標津町、中標津 町、別海町、そして根室市と言う1市4町で 成り立っております。その中間地点にありま す中標津町と言う所に、現在私は住んでおり ます。

姉妹は3人おります。父、母と一緒に住ん でいました。母も元島民で、父が昭和52年に 亡くなりまして、その後に千島連盟の中標津 支部が出来ましたが、その時、母の都合が悪 かったのかどうかは分かりませんけれども、 父の代わりに私が行かなければならないと勘違いしまして、出席しました。その後、色々な行事に参加をさせて貰いまして、今現在に至っております。

平成18年か19年頃になるのじゃないかと思うのですけれども、この語り部の登録をさせて頂きまして、まだ4~5回位しかしていません。未熟なお話しか出来ませんので、お聞き苦しい所もあると存知ますけれども、約20分間頂いております。その中でどれほど話せるか分かりませんが、どうぞ宜しくお願い致します。

まず、父は明治43年生まれで函館師範卒業です。母は大正3年に生まれておりまして、小田郡双葉女子女学校を卒業致しました。その後、それぞれ根室管内に教員として赴任して参りました。そして昭和6年から10年まで、父は国後島に4年間赴任致しました。その後、「校長にしてやるから結婚しなさい」と言われまして、昭和13年に母と結婚を致しました。そして昭和17年に志発島に母と赴任致しまして、終戦を迎えました。そのため父、母、姉が元島民、私が後継者と言う事でこの活動を行うようになりました。

北方領土は資源の豊かな所で、昭和6年から10年まで勤務しました国後島は、父に言わせると、とても良い所だったそうです。資源は豊富で食べる物には困らない。教育者として教育して行く上で、島の人達の人柄が素晴らしかったと言います。教育者として何かをやる時に、全て受け入れてくれた。教育者冥利に尽きる、と言う事を言っておりました。

そして、国後島から転勤して根室に来ましたけれども、また島に行きたいと言う事で、択捉島に行っています。戦争の色が濃くなった時なんですけれども、また島に行ったと言う事で、如何に島が好きになってしまったかと言う事がお分かり頂けるかなと思います。

北方四島と言うのは、国後島と択捉島そして色丹島と歯舞群島と言う小さな島々でなっているのですけれども、歯舞群島の中でも一番大きい島が志発島になります。約60平方キロメートル、終戦時には374戸、人口が2,249人居たと言う事です。

終戦を迎えまして、9月3日にソ連軍が志発島へ上陸して来たそうです。その時、軍隊は国後島に引き揚げ対戦してくれなかったそうです。軍隊はもう国後島に引き揚げてしまった。それで婦女子は、ロシア人に何かさ れると嫌だと言う事で、裏山に逃げたり、2~3週間島を離れると良いのじゃないかと言う事で、2~3週間の食料を持って根室に船で逃げました。その時に、うちの母と姉がその方達と一緒にさせて貰って、逃げて来ました。

父は、学校を守らなければならないので残りました。残りはしましたけれども、生徒がいないですから、学校を再開するにも出来ない。それで「これからどうしたら良いか」と言う事を、根室の教育局に再三に亘って連絡を取ったけれども、全然「こう言うふうにしなさい」と言う返答が返って来なかったのだそうです。

そして2~3カ月しました時に、もう埒が明かないと言う事で、ちょうど根室に来る船がありまして、残っている先生方には何も言わないで、それに乗せて貰って根室の教育局に行ったそうです。そうしたら、「もう帰ら なくて良い」と、「島に戻らなくても良いよ」と言われてしまったので、父はそのまま残ったと言う事です。

昭和33年頃、千島連盟が出来ました。返還運動が盛んになって来ておりましたけれども、その中で父達も千島連盟回想録や、島の生活を忘れちゃいけないと言う事で色々と物を書いたりしておりました。その中で、「島が返って来たら、もう一度島に行って教育をし直すんだ」と言う事を言っており、私は小さい時から常々聞いていましたので、その事が支部が出来た時に私が行かなければならないと思った要因なのかなと思っています。今になって何で行ったのだったのかな?といつも不思議に思うのですけれども、これも何か惹かれるものがあったのかなと思っております。

最初の頃は、何も分からずに参加をしてました。北方領土がどう言うものかと言う事も、島を捕られたと言う事も何も分からずに参加をしていました。その時は、元島民の方も若くて活動をしていましたし、参加をするだけで良かったんですけれども、10年、20年と参加をしても、いつまで経っても返って来ません。そしてその内に、元島民の方も段々亡くなったとか、高齢になって来て色んな所から手伝ってくれないか、と言う事になりました。夏・冬に署名活動をやっているのですけれども、そこにも手伝ってくれと言う事になって、行くようになりました。

署名を皆さんに呼び掛けるのですけれども、署名して下さる方もいます。でも、中には「何をやっているの!こんな事をしたって島は返らないよ」、「あんた達のために何で署名しなきゃならないの!」と言われるのです。「あんた達のため」なんです。「元島民のため」なんですよ。そう言う言い方をされまして、返す言葉がありませんでした。何も分かりませんでしたから。でも、それでもやっていました。色々な行事に参加しながら、色々勉強して。

「戦争に負けたんだから仕方がないでしょう」、「当たり前でしょう」、ロシア人もこの頃言いだしてます。戦争で獲ったんだから日本に返さなくても良いんだと言う事を。

けれども、この返還運動に後継者として携わって、色んな事を勉強して行く内に、元島民だけの問題じゃない、日本の国の問題であって日本の領土の問題じゃないかと思うようになって来たのです。だから、元島民の人達が帰りたいのはやまやまなんですけれども、元島民だけのためじゃなくて、日本国の領土の問題なのですよね、と言う事は日本国民全員が考えなきゃならない、そう言う事だと思うのです。

それで「国民の問題だよ」って言えるようにならなければならないと思います。元島民の方達が高齢になって来ます。私達も段々年を取って来て、もう戦後67年ですから60歳になって来ています。だから、段々動けなくなって来るので、早く何とかして欲しいと言う気持がありますけれども、その思いを「皆さんこうなんですから、是非、お願いします」と声を大にして言えるのは、やはり元島民です。こう言う所で「私達の問題じゃないですよ、国民全体の問題ですから一緒に考えて下さい」と言う事を言えるのは、私達なのかなと思って、参加をさせて頂いています。

そしてその中で、元島民の人達は領土返還の実現を願っていますけれども、私達後継者はその元島民の願いの返還と、国民の領土への関心を廃れさせないように、より関心を高めてもらう事をやって行かなければならないのじゃないかと。それが、私達後継者の使命じゃないかと言う事で頑張っています。

そして若い子供達にも、北方領土の事に少しでも関心を持って貰おうと思いまして、今年は「エトピリカ」と言う新造船が出来ましたのでそれを使いまして中間地点まで、北海道と北方四島の間の中間地点の近くまで行って、国後島しか見えませんけれども、こんなに近いんだよ、と子供達に少しでも北方領土への理解を深めて貰おうと思って洋上セミナーという事業を取り組んでいます。

署名活動をやっていて、北海道民の方ですけれども北方領土問題に対して関心を持っていない人がいるのです。「あんた達のために何で署名をするの」って言う人達もいますから、そういう人達を少しでも少なくして行かなければいけないと思いまして、キャラバン隊を組みまして道内を周りました。

北海道内は広いです。北側、中央、東、南、函館方面、西と言うように道内の各市町村を周って、市長を表敬訪問をしたり、その地区で署名活動をしたりしながら周りました。今度は北海道が終わったのだから東北に行こうと言う事で、皆さん働き盛りで中々暇を取れる人がいないのですけれども、土日を挟んだら何とか行けるだろうと言う事で、今年は青森県を回りました。青森市と弘前市の2カ所程で署名やって参りまして、月曜日の朝、表敬訪問をして帰って来ました。

お金が余りありませんので、一年置きに道外に行こうと言う事になって、来年は北海道、再来年は東北をまた周りますけれども、何処になるか分かりません。もしかしたら新潟にと言う時があるかも知れませんので、その時は宜しくお願いしたいと思います。

後継者としてそう言う事でお願いをしておりますけれども、根底には国民の領土なのですよ、と言う思いがあってやっております。北方領土は元島民だけの問題ではありません。どうぞ、国民全員の問題なのだと言う認識を持って頂きたいと思います。そして皆様方には返還の声を大きくして頂き、国に肝を据えて返還交渉をしなければ駄目だと思うように取り組んで頂きたいと思います。どうぞ皆さん、宜しくご理解の程、お願い致します。

田中 晴樹

ご来場の皆様、お晩でございます。
只今紹介頂きました、社団法人千島歯舞諸島居住者連盟中標津支部青年部副部長の田中晴樹と申します。

今回4回目となる北方領土語り部&寄席イン中標津でございますが、いつもは司会者の立場で、皆さんとお会いしておりましたが、とうとう舘下部長より、「今回はお前がやれ!!」という鶴の一声で決定してしまいました。

普段の司会と違いまして、ところどころ噛んでしまい、スムーズに行かないこともあるかもしれませんが、よろしくお願いします。

また今回お話をするのは、平成9年9月にビザ無しで、択捉島へ行った時の体験をお話します。何しろ15年前の話なので、新鮮さもなく、がっかりされるかたもいるかもしれませんが、最後までお付き合い下さいますようお願いします。

そもそも私が、この千島連盟に加入したきっかけは、当時、中標津町商工会青年部に在籍していた時に、舘下部長との会話の中で、たまたま父が択捉島に住んでいたらしいと教えたのが始まりで、その時に部長が「晴樹、近々養老牛温泉で、無料でお食事できる集まりがあるから来ないか?」と誘われ、無料でお食事が出来るなんて、すごい集まりだと思い、二つ返事で参加することにしました。

実はこの誘いは、舘下部長の作戦で、部長は一緒にこの返還運動に携わってくれる若い人を探していたのです。以来私たちはずっと、この返還運動に携わって参りました。本日も会場の受付にて、北方領土返還要求の署名をご用意いたしておりますので、ご協力頂きますようお願いいたします。< /p>

また、お話だけでは、皆さんも飽きると思いますので、スライドも用意致しました、話に飽きた方はスライドの方を見ていた下さい。

それでは本題に入らせて頂きます。

最近は中標津の開陽台にもそれほど行かなくなりましたが、開陽台から見える国後島は、なぜ北海道の一部では無いのかが疑問に思うほど近くに見えます。近くて遠い島、それが北方領土という認識でした。父が他界してから7年が発とうとしていますが、父の故郷は択捉島の留別村です。祖父母は函館の南茅部町から択捉へ渡り、祖父は日露漁業で船頭をしていたらしいです。

父から聞いた択捉島は、鮭が豊富に捕れ、川が魚だらけになり、棒を差し込むと、その棒が立ったまま動いて行ったらしいと言うことです。冬は鮭の皮が長ぐつのスパイクの代わりをしていたそうです。私は子供のころに、このような父の話を半信半疑で聞いていたような気がします。

それらの思いを胸に、平成9年9月、出発の日が来ました。根室の花咲港を出発、しかし道中は険しく、大変な揺れが来て船が倒れるのではないかと思うほどの横揺れが始まり、私はベッドに横になりました。あまりのめまいで、眼鏡をはずすのを忘れ、大きく傾いた拍子に眼鏡を折ってしまい、セロテープで止めて、何とか事なきを得て、出発から13時間後には択捉島の内岡に到着しました。そこから軍用トラックに幌をかぶせた、まるで捕虜になったような気分でバスに揺られました。30分かけて紗那の行政府を訪問いたしました。現在はわかりませんが、当時、島には舗装道路が1ヶ所もありませんでした。島の雰囲気は私が生まれた昭和30年代の北海道の田舎のようでした。

行政府を出て、一行は天寧というところに向かいました。ここはソ連の軍事施設があったところで、平成9年当時としては、訪問団の視察が許されるのは初めての場所でした。

天寧に行く途中に、なんと父の育った留別村がありました。ありましたというより、存在していませんでした。通訳の人に聞くとあそこが留別村の跡地だと言われ、がっかりして気持ちが萎えてしまいました。バスに揺られること1時間半、今では廃墟と化した天寧が見えました。ここには日本の墓地があるということでしたが、それらしき物は見当たらず、とりあえず黙祷をささげ、民間飛行場へと行きました。そこはブロックが敷かれた滑走路で、本当に飛行機が発着しているのかと思うほどひどいものでした。当時は軍事大国だったロシアの面影はなく、壊れたミグ戦闘機の残骸がそれを物語っていました。

その後、ホームスティ先のガリーナさん宅へ向かいましたが、途中の川では、鮭が群れを成して飛び跳ねておりましたが、父から聴いていたほどの魚の群れは発見できませんでした。ガリーナさん宅ではロシア語のハンドブックを片手に沈黙が流れることの繰り返しでしたが、途中、通訳の人が来てくれて30分ほど会話が進みました。しかし、ホームステイ先では領土問題にはあまり触れないよう言われていたため、立ち入った話はほとんどできませんでした。

翌日は紗那の町で博物館、地震で壊れた診療所(当時、日本企業が修復中でした)、アメリカ企業により建設中の学校等を見学して、別飛村へ向かい、幼稚園を視察しました。子供たちが歌ってくれた「上を向いて歩こう」が訪問団を楽しませてくれました。その後、水産加工場を視察しましたが、この工場は択捉で一番活気があり、ベルトコンベアーに追われながら必死に働いている姿が印象的でした。

その後紗那に戻り対話集会へと向かいました。たくさんのロシア人が出迎えてくれました。その中で古くから住んでいるという老人が「なぜ、日本人は外国軍を配備しているのか?」「領土が日本に戻れば、あっという間に魚が乱獲されて、居なくなってしまう」「この問題は子孫が解決してくれる」というような発言がありました。

しかし、このような発言こそ領土問題を先延ばしにしてきたロシア人の本質であると感じました。なぜなら、ほんの少しでも、この領土問題が発展性のある話し合いになりかけた時には、必ずと言っていいほど棚上されたり、または指導者が変わって元に戻ってしまうことの繰り返しだったと思います。

特に当時のロシアの大統領はエリツィン大統領で、故橋本首相とは大変友好的でしたので、日本でもこのエリツインさんの時に何らかの解決をと意気込んでおりましたが、現在、領土交渉は特にこれといった進展もなく、昨年はロシアの大統領として初めてメドベージェフ大統領が国後島を訪問しました。あの時、私はこれで北方領土問題もロシアに取られたまま終わるのかな?と思いましたが、今年プーチン大統領が再任され、日本の柔道になぞって「引き分け」「始め」と日本向けのパフォーマンスはしてくれましたが、今の日本の政府だとどこまで詰めることが出来るのかは解りません。

と先日この原稿を書き終えたところで、メキシコ・ロスカボスでの野田首相とプーチン大統領の初会談の記事が道新に掲載されました。

この中でプーチン大統領は先の「引き分け」発言の真意については沈黙を守り、日本側も玄葉外務大臣を7月にもモスクワを訪問する方向で合意をしたとありますが、結局は「外交レベルで実務的に交渉しよう。」と少し距離を置かれた感じはぬぐい去れませんが、私たちは少しでも進展するよう期待するしかありません。

これからは、尖閣諸島の様に日本の世論を盛り上げるのは、なかなか難しいかもしれませんが、私たちは元島民の2世として、四島の帰属をはっきりとロシアに訴えつつ、返還運動を盛り上げていきたいと思っております。

最後になりますが、2世と言われている私たちも、40代半ばから50代後半、60代になろうとしております。私が舘下部長に誘われた時のように、さすがに無料での呑み食いは出来ないかもしれませんが、一緒に活動して行く、3世、4世を探しておりますので、知り合い等で3世、4世の方がおりましたら、是非紹介して頂きたいと思います。

本日は、最後までお聞き頂きましたありがとうございました。

池田 秀人

 社団法人千島歯舞諸島居住者連盟中標津支部の「池田秀人」と申します。

本日は、この様な機会を与えていただき、ありがとうございます。
今回開催要項の文書の中に、「後継者の語り部が講師を務める」とありましたが、語り部と言っても初めての経験。お話だけでは持ちませんので、用意した資料を参考に進めさせていただきます。

実は、語り部に登録されていながら、私自身は母の故郷である国後島に渡った経験はありません。ですから自分の体験を語ることができませんので、今日は、母から聞いたお話をさせて頂きたいと思います。

さて、母は昭和11年(1936年)国後島泊村で生まれました。終戦時は、両親と兄弟7人、おじさんの家族と暮らしていたようです。住んでいた自宅の周りに、他に民家は無くポツンと自分の家だけがあったと、言います。自分の家の敷地内に川が流れ、時期になるとその川にも秋味が遡上していました。よく、北海道の川を遡上する鮭の様子を、『川に棒を立てても、倒れない』という言い方をしますが、正しくそれを身をもって体験したと、話します。

終戦時、母は9歳でした。ある日突然、ソ連兵が3名、土足で自宅に入り込んできました。大きな鬼のような体で、訳のわからない言葉で、大声で怒鳴りながら鉄砲を構えていたようです。恐怖で呆然とし、体が動かなかったと話していました。そのソ連兵は、数日に渡って滞在していたようですが、その間一度たりとも鉄砲を手放すことはなかったと言います。寝るときは、交代で、鉄砲を持ったまま床に腰を下ろすだけ。それでも、9歳の女の子の特権とでも言うのでしょうか、兄弟の中で、母だけがソ連兵から「黒パン」をもらって食べていたそうです。

その後、母の記憶でははっきりしませんし今となっては伯父や叔母も誰一人覚えていませんが、かなり寒く、雪の舞うような時期の夜中、船で島を出ました。見つからないように、と言うことだったのでしょう。
幸い発動機付の船を所有していたのですが、脱出時は両親と伯父さん夫婦、兄二人が交代で船を漕ぎ、遠く島を離れてから船のエンジンを掛けたようです。エンジンをかける際も、排気筒を毛布で包むなどして見つからないように細心の注意を払いました。一番下の弟は当時1歳で、泣き声を発てないようにと母は寒さも忘れ、真剣にあやし続けました。ソ連兵に見つかるかもしれないと言う恐怖と寒さのため、命からがら逃げるようにして、島を後にしました。

私は、こんな話を幾度となく聞いてきましたが、母は話をする際、必ず「家があった場所は、ポンタロベツだ。」と、言い切ります。しかしながら、母の兄弟は誰しも「名前は思い出せないけど、それは違う。」と言います。私も、北方領土に関連する施設に立ち寄った時など、事あるごとに「ポンタロベツ」を探しました。勿論、書籍やインターネットでも調べました。しかし、見つかりませんでした。
ところが、連盟の名簿と、平成18年以降に発行された居住図によって母の生まれた土地、母の故郷の正式な名前を知ることができました。

資料:地図(A)
勿論連盟の名簿には以前より記載されていましたが、出身地は国後島 泊村クシナイ。母の記憶にあった通り、周りに民家はなくすぐそばに「クシナイ川」が流れていることを、地図で確認することができました。
母方の実家は、引揚後、今でも尾岱沼にあります。父と結婚した後、中標津町に住むことになったわけですが、当然中標津と尾岱沼を行き来する際、帰る事のできない自分の故郷を、目の前に見ていたのだろうな、と思います。

では、母の記憶にある「ポンタロベツ」はどこにあったのでしょうか?

資料:地図(B)
母の記憶にあった「ポンタロベツ」は正確な名称ではなく、正確には「ポンタルベツ」で、そこには母の祖母、私にとって「ひぃばあちゃん」が、住んでいたことがわかりました。
母が言うには、泊の学校へ毎日歩いて通い、夜になると泊の灯りが浜沿いに見えていたとのこと。恐らく、平日はおばぁちゃんの家から学校に通い、休みの日には、自宅に戻っていたのではないかと思います。

母は、今年75歳、もうすぐ76歳になります。その母に地図を指さして、「ここが生まれた場所で、クシナイだ。」と、説明するには難しいものがあります。
現状では自由に島に渡ることができない状況で、母に生まれた場所の説明ができません。また、自分の生まれた場所、育った場所の名前をずっと間違えたまま覚えていた事について、本人がそれを確認する術がなかったことは、到底自然なこととは思えません。
「島に自由に渡り、いつでも自分の故郷を確認できる環境を整える。」そんな状況になることを、願ってやみません。

とはいえ、願っているだけでは何もできません。
島が不当に占拠されて66年が経過し、今なお自由に行き来することができない。それでも母はきっと今でも、「ポンタロベツ」が自分の家だと信じています。そんな現実がある以上、島が戻るまで、どんな状況であろうと、誰かが返還運動を続けなければいけません。

私は平成14年、中標津で開催された「現地青年のつどい」に誘われたのがきっかけでこの返還運動に携わるようになり丁度10年になりますが、実際のところ、私に何ができるのかわかりません。
しかしながらこの10年で携わってきたことが、少しずつ成果を上げていることもあるのだと思っています。

現在中標津支部では、資料にある4つの事業を柱に活動しています。
毎年600枚以上のカードを配布する「なかしべつ夏まつり」会場での北方4島ビンゴ、2月で丸4年になるホームページの運用、5回目の実施となるネット検定(2月実施予定)、7月の実施で3回目となった北方領土寄席。
これらの活動は、どれも直接的に島の返還に繋がるものではありませんが、連盟の外に対して情報を伝える手段としては、非常に効果的だと思っています。

私は、10年前まで返還運動でどんな活動が行われてきたのか全く知りませんでした。そして現在でもネット検定で送られてくる感想を読むと、10年前の私と変わらない国民が多いことに気づかされます。

私は、個人的には現状をより多くの国民に伝えることは、重要な返還運動の一つと考えています。同時に、情報を伝える手段の一つとしてインターネット・ITを活用することは有効であると思っているわけですが、もし、自分自身にもできる返還運動があるとするならば、それはこのような活動であり、それが自分の役割なのではないかと思う次第です。
そして、本日、後継者の語り部として初めてこの様な機会を与えられたわけですが、この後「お前は、止めろ!」と言われなければ、今後も勉強と経験を重ね、この語り部も情報を伝える手段の一つとしていきたいと思います。

北方領土問題は、決して元島民だけの問題ではありません。不当に島を占拠され続け66年を経過しても今尚、日本の主権が侵されているのです。私は、この現状をより多くの国民に知って頂くために北方領土問題の今を伝えたいと思います。それが、大きな世論となって欲しいと、願ってやみません。

何分初めての経験であり、お聞き苦しい点は多々あったかと思いますが、ご清聴いただきありがとうございました。

宮脇 田鶴子

こんにちは。宮脇田鶴子と申します。北海道は大まかに4分割され、道東、道北、道央、道南と言われており、その中の道東は網走管内、根室管内、釧路管内、帯広管内が入りまして、根室管内のほぼ中央に位置します中標津というところに住んでいます。世界遺産の知床国立公園、ラムサール条約の釧路湿原、霧の摩周湖、マリモの阿寒湖には1時間から2時間ぐらいで行くことができます。東京便も1便ですが飛んでますし、千歳からは3便飛んでおりますので、どうぞいらして下さい。

私の家族は5人家族ということになっていますが、姉の一人が志発島で生まれてすぐに死んでおりますし、兄が15歳で亡くなっており、父、母、姉、私、妹の5人家族で暮らして参りました。今では父も母も亡くなり、3人姉妹だけになっております。

父母共に教員でしたので、職場結婚となりますが恋愛ではなく、紹介による結婚でした。昭和13年に結婚いたしまして、17年に志発島に行き終戦まで住んでましたので、兄・姉までが元島民、私と妹が後継者となってます。

母は結婚して志発島に来たので、子供の時から住んでいた方々とは違う想いかと思いますが、志発島で生まれて直ぐの娘を亡くし、墓まで建ててますのでそれなりの想いはあったのではないかと思います。父は、昭和4年に教員になり昭和6年に国後島に行きました。昭和10年までの4年間、泊の国後尋常高等小学校に勤務し、昭和12年から13年までの1年間、択捉島紗那の紗那尋常高等小学校に勤務しました。そして、昭和17年から20年の終戦まで志発島の西前にあります志発島西前国民学校に勤務してました。

教員になってからの島との関わりなので、母同様子供の時から住んでいた元島民とは違う想いであろうかと思いますが、別の角度で想い入れが強かったようです。父は、昭和51年に亡くなっておりますが、私が若かったことや後継者としての自覚がなかった事もあり、島での詳しい話は聞いてませんでしたので、今になっては色々聞いておけば良かったと思ってます。

ただ、昭和46年から48年にかけてだと思いますが、北方四島に勤務していた教員達が千島諸島での生活や教育状況を書き留めておこうと「千島教育回想録」を作成すべく、その原稿書きをしている時だったと思うのですが、父は「島での生活は良かった。暖かくて、川で泳いだり、スイカを食べたり、子供達のために道路を作ってくれと言ったら作ってくれたり、とても良い所だった。島が還ってきたら、また絶対行くんだ、行って暮らすのだ」と言ってました。このぐらいしか聞いた記憶がなく、後継者としてこの程度しか聞いてないというのは心許ないのですが、その言葉が今私が活動していることに繋がっています。

父の島への想いを、「千島回想録」に依るところではありますが、少しお話しをさせていただきます。

国後島の資源は蟹、サケ、マス、ホッキ、鱈、昆布と豊富で、お金を出して買うことがなく、皆貰って食べていたそうです。また、教育についても、器械や施設が充実しており、図書においても他の学校にはない貴重な蔵書があるなど父兄の理解があり、援助協力が惜しみなくやればやるだけの成果が上り、充実した日々を送ったようで、そうした日々が忘れがたかったのだと思います。

そして、2年後に択捉島に行っています。択捉島は国後島より北にあり、海流の関係だと思いますが国後島より暖かく、スイカが生り夏には川が温水プールになったそうです。サケ、マスはもとより、鯨も捕れたため捕鯨場もあり、国後島以上に豊かな島だったようですが、学校火災という不祥事が原因で1年で転勤になってしまいます。戦争が激しくなり、これで良いのかと満州派遣教員を希望しますが、志発島行きを命じられ赴任します。

志発の島民は、ほとんどが昆布採取業者でしたが、その他にホタテ採取業者がおり、日魯かに缶詰工場や加里塩工場もあり、国後島に負けない資源がありました。また保護者の理解と協力もあり、教育の成果が上がり父にとっては桃源郷だったと書いてあります。子供達のために、冬の寄宿舎を作って欲しいと言ったら作ってくれ、その頃は島の周囲に道路があるだけで、遠くの子供たちは嵐や高波になると学校に来られなくなるから内陸に道路を作って欲しいと言ったら、父兄の力で1日で作ってくれたこと等。教育に関する事をしたいと言ったら協力してくれる、こんな教育者冥利に尽きることはないと思います。

終戦になって、ロシア兵が上陸して来て日本兵が国後島に引き上げた時、後々島民も危害を加えられるかもしれないから、一時根室に避難しようということになり、何隻かに分けて避難したそうです。その中に、母と兄、姉を頼み、父は学校を守るため残ったそうです。子供たちはおりませんので、ただ番をしている状態だったようです。

今は教育局と言っていますが、当時は学史と言っていたようで、これからどうしたら良いかと再三指示を仰いでいたようですが返事がなく、ちょうど根室に行く船があり直ぐ帰るつもりで、残っている人達に何も言わずに根室に来て教育局に行ったところ「もう帰らなくても良い」と言われ、そのまま根室に留まってしまったそうです。

その頃、一時避難していた人達は持ってきた食料が底を付きだし、「これからどうしようか?島に帰ったら食べ物には困らないし…」と島に帰りだしたそうです。子供たちも島に帰ってくる中で、父に戻ってくれという話があったそうですが、戦後の混乱した教育現場の中で、戻らなくても良いと言われた事もあったと思いますが、父は戻らなかったのです。その時はそれで良かったのだと書いてありますが、そのことが余計に「島が還ってきたら、もう一度島に行って教育をするのだ」と言った言葉にながったのではないかなと推察します。

昭和51年に父は亡くなりますが、52年に千島連盟の中標津支部が設立されます。その設立総会の案内文書が来た時、行くのは当然母が行くべきなのですが、母は行かないのです。都合で行けなかったのかもしれません。そして何故か私が行くのです。

「島が還ったら帰る」この言葉を聴いてなければ、行かなかったと思うのですが。父の代わりに行かなければならないと思ったのです。それで「良く来たね」という事だったのか「ビザなしに行かないかい」「研修会に行かないかい」と言われ、参加しているうちに今になっています。

平成元年に、中標津支部青年部は出来ているのですが、新たに後継者として青年部の活動を始めたのは平成16年からになります。管内には1市4町ありますが、それぞれ各支部があり青年部があります。元島民が段々少なくなって行く中、「我々が後継者として何かして行かなければならないのではないか」と管内青年部連絡協議会を作り、事業や研修会を行い、元島民の想いを継承して行こうとしています。中間地点まで行き、北方領土をより身近に感じて領土問題を青少年に考えてもらいたいと、洋上セミナーをやっていますし、道内を回りながら署名活動をし各市町を表敬訪問して歩くキャラバン隊活動も行っております。

平成4年からビザなし交流が行われていますが、その最初の年に色丹島に行ってきました。志発島にはロシア人が住んでいませんので、ビザなし交流で行くことはできません。行くには自由訪問か墓参しかありません。父母の住んだ島、姉が死んだ島、墓は建てたといっていましたが、あるかどうかわかりません。母が生きているうちに一緒に行けば良かったのですが、亡くなってから4度ほど行っています。

色々と活動してますが、署名活動に参加するようになってから冷たい反応に会いました。

地元では、夏と冬に行っているお祭りの中で、署名コーナーを設けて署名してもらっています。元島民の方々でやってましたが、高齢になってきたことで後継者も手伝いで参加するようになりました。初めて参加した頃、3分の1ぐらいの人達にそっぽを向かれました。「あんた達のためになんで署名しなければならないの」という感じでした。それまで、元島民の人達が署名活動をしているのにです。「これって何」という感じでした。そのうち研修会等で歴史的な事とかを勉強していくうちに、後継者だから当然と思ってやってきたことですが、「これって元島民と後継者だけの一部の人達の問題なのだろうか?領土の問題なのだから国の問題なのではないだろうか?国民の問題として皆でやらなければならないことではないだろうか?」それにはもっと北方四島の事について皆様に知ってもらわなければなりません。

今、領土交渉は以前より後退している感がありますが、それでも風化させるわけにはいきません。中心的に動いて行けるのは、我々元島民と後継者になるのでしょうが。島に還りたいと言っていた元島民の想いを、後継者として語り継いでいかなければと活動して行きます。

最後にどうぞ皆様、日本の領土問題として考えてください。そして領土返還の皆様の声を大きくしていただけると嬉しいです。ご静聴ありがとうございました。