池田 秀人

 社団法人千島歯舞諸島居住者連盟中標津支部の「池田秀人」と申します。

 本日は、この様な機会を与えていただき、ありがとうございます。
 今回開催要項の文書の中に、「後継者の語り部が講師を務める」とありましたが、語り部と言っても初めての経験。お話だけでは持ちませんので、用意した資料を参考に進めさせていただきます。

 実は、語り部に登録されていながら、私自身は母の故郷である国後島に渡った経験はありません。ですから自分の体験を語ることができませんので、今日は、母から聞いたお話をさせて頂きたいと思います。

 さて、母は昭和11年(1936年)国後島泊村で生まれました。終戦時は、両親と兄弟7人、おじさんの家族と暮らしていたようです。住んでいた自宅の周りに、他に民家は無くポツンと自分の家だけがあったと、言います。自分の家の敷地内に川が流れ、時期になるとその川にも秋味が遡上していました。よく、北海道の川を遡上する鮭の様子を、『川に棒を立てても、倒れない』という言い方をしますが、正しくそれを身をもって体験したと、話します。

 終戦時、母は9歳でした。ある日突然、ソ連兵が3名、土足で自宅に入り込んできました。大きな鬼のような体で、訳のわからない言葉で、大声で怒鳴りながら鉄砲を構えていたようです。恐怖で呆然とし、体が動かなかったと話していました。そのソ連兵は、数日に渡って滞在していたようですが、その間一度たりとも鉄砲を手放すことはなかったと言います。寝るときは、交代で、鉄砲を持ったまま床に腰を下ろすだけ。それでも、9歳の女の子の特権とでも言うのでしょうか、兄弟の中で、母だけがソ連兵から「黒パン」をもらって食べていたそうです。

 その後、母の記憶でははっきりしませんし今となっては伯父や叔母も誰一人覚えていませんが、かなり寒く、雪の舞うような時期の夜中、船で島を出ました。見つからないように、と言うことだったのでしょう。
幸い発動機付の船を所有していたのですが、脱出時は両親と伯父さん夫婦、兄二人が交代で船を漕ぎ、遠く島を離れてから船のエンジンを掛けたようです。エンジンをかける際も、排気筒を毛布で包むなどして見つからないように細心の注意を払いました。一番下の弟は当時1歳で、泣き声を発てないようにと母は寒さも忘れ、真剣にあやし続けました。ソ連兵に見つかるかもしれないと言う恐怖と寒さのため、命からがら逃げるようにして、島を後にしました。

 私は、こんな話を幾度となく聞いてきましたが、母は話をする際、必ず「家があった場所は、ポンタロベツだ。」と、言い切ります。しかしながら、母の兄弟は誰しも「名前は思い出せないけど、それは違う。」と言います。私も、北方領土に関連する施設に立ち寄った時など、事あるごとに「ポンタロベツ」を探しました。勿論、書籍やインターネットでも調べました。しかし、見つかりませんでした。
ところが、連盟の名簿と、平成18年以降に発行された居住図によって母の生まれた土地、母の故郷の正式な名前を知ることができました。

資料:地図(A)             
 勿論連盟の名簿には以前より記載されていましたが、出身地は国後島 泊村クシナイ。母の記憶にあった通り、周りに民家はなくすぐそばに「クシナイ川」が流れていることを、地図で確認することができました。
母方の実家は、引揚後、今でも尾岱沼にあります。父と結婚した後、中標津町に住むことになったわけですが、当然中標津と尾岱沼を行き来する際、帰る事のできない自分の故郷を、目の前に見ていたのだろうな、と思います。

では、母の記憶にある「ポンタロベツ」はどこにあったのでしょうか?

資料:地図(B)             
 母の記憶にあった「ポンタロベツ」は正確な名称ではなく、正確には「ポンタルベツ」で、そこには母の祖母、私にとって「ひぃばあちゃん」が、住んでいたことがわかりました。
母が言うには、泊の学校へ毎日歩いて通い、夜になると泊の灯りが浜沿いに見えていたとのこと。恐らく、平日はおばぁちゃんの家から学校に通い、休みの日には、自宅に戻っていたのではないかと思います。

 母は、今年75歳、もうすぐ76歳になります。その母に地図を指さして、「ここが生まれた場所で、クシナイだ。」と、説明するには難しいものがあります。
現状では自由に島に渡ることができない状況で、母に生まれた場所の説明ができません。また、自分の生まれた場所、育った場所の名前をずっと間違えたまま覚えていた事について、本人がそれを確認する術がなかったことは、到底自然なこととは思えません。
「島に自由に渡り、いつでも自分の故郷を確認できる環境を整える。」そんな状況になることを、願ってやみません。

 とはいえ、願っているだけでは何もできません。
 島が不当に占拠されて66年が経過し、今なお自由に行き来することができない。それでも母はきっと今でも、「ポンタロベツ」が自分の家だと信じています。そんな現実がある以上、島が戻るまで、どんな状況であろうと、誰かが返還運動を続けなければいけません。

 私は平成14年、中標津で開催された「現地青年のつどい」に誘われたのがきっかけでこの返還運動に携わるようになり丁度10年になりますが、実際のところ、私に何ができるのかわかりません。
しかしながらこの10年で携わってきたことが、少しずつ成果を上げていることもあるのだと思っています。

 現在中標津支部では、資料にある4つの事業を柱に活動しています。
毎年600枚以上のカードを配布する「なかしべつ夏まつり」会場での北方4島ビンゴ、2月で丸4年になるホームページの運用、5回目の実施となるネット検定(2月実施予定)、7月の実施で3回目となった北方領土寄席。
これらの活動は、どれも直接的に島の返還に繋がるものではありませんが、連盟の外に対して情報を伝える手段としては、非常に効果的だと思っています。

 私は、10年前まで返還運動でどんな活動が行われてきたのか全く知りませんでした。そして現在でもネット検定で送られてくる感想を読むと、10年前の私と変わらない国民が多いことに気づかされます。

 私は、個人的には現状をより多くの国民に伝えることは、重要な返還運動の一つと考えています。同時に、情報を伝える手段の一つとしてインターネット・ITを活用することは有効であると思っているわけですが、もし、自分自身にもできる返還運動があるとするならば、それはこのような活動であり、それが自分の役割なのではないかと思う次第です。
そして、本日、後継者の語り部として初めてこの様な機会を与えられたわけですが、この後「お前は、止めろ!」と言われなければ、今後も勉強と経験を重ね、この語り部も情報を伝える手段の一つとしていきたいと思います。

 北方領土問題は、決して元島民だけの問題ではありません。不当に島を占拠され続け66年を経過しても今尚、日本の主権が侵されているのです。私は、この現状をより多くの国民に知って頂くために北方領土問題の今を伝えたいと思います。それが、大きな世論となって欲しいと、願ってやみません。

 何分初めての経験であり、お聞き苦しい点は多々あったかと思いますが、ご清聴いただきありがとうございました。

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