池田 秀人(2014.06.28)

 中標津支部の「池田秀人」と申します。青年部では、監事を仰せつかっています。本日は、この様な機会を与えていただいたのですが、語り部と言っても、ほとんど経験がありません。お聞き苦しい点もあるかと思いますが、しばらくお付き合い頂きたいと思います。

 実は、語り部に登録されていながら、私自身は母の故郷である国後島に渡った経験はありません。ですから自分の体験を語ることができませんので、今日は、母や叔父・叔母から聞いた話と、青年部の活動を紹介させて頂きたいと思います。

 さて、母は昭和11年(1936年)国後島泊村で9人兄弟の上から4番目、次女として生まれました。終戦時は、両親と兄弟のうち7人が、おじさんの家族と一緒に暮らしていたようです。住んでいた自宅の周りに、他に民家は無くポツンと自分の家だけがあった、と言います。自分の家の敷地内に川が流れ、時期になるとその川にも秋味が遡上していました。よく、北海道の川を遡上する鮭の様子を、『川に棒を立てても、倒れない』という言い方をしますが、正しくそれを身をもって体験したと、話します。よく兄弟で、手づかみしたとのことです。

 日本は、昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受諾し終戦を宣言しましたが、その時、母は9歳、小学校4年でした。
<侵略地図表示>
 この図から判るように、ソ連は、終戦の3日後、8月18日から侵略を開始し、母の住む国後島にも、9月1日から4日にかけてやってきました。この時、自宅にもソ連兵が3名、土足で入り込んできました。鬼のように大きな体で、訳のわからない言葉で大声で怒鳴りながら鉄砲を構えていたようです。恐怖で呆然とし、体が動かなかったと話していました。

 そのソ連兵は、数日に渡って滞在していたようですが、その間、一度たりとも鉄砲を手放すことはなかったと言います。寝るときは、交代で、鉄砲を持ったまま床に腰を下ろすだけ。それでも、9歳の女の子の特権とでも言うのでしょうか、兄弟の中で、母だけがソ連兵から「黒パン」をもらって食べていたそうです。

 母の記憶でははっきりしませんが、伯父や叔母に話を聞くと、かなり寒く、雪の舞うような時期の夜中、船で島を出ました。見つからないように、と言うことだったのでしょう、交代で船を漕ぎ、遠く島を離れてから船のエンジンを掛けたようです。一番下の弟は当時1歳で、泣き声を発てないようにと、母は寒さも忘れ、真剣にあやし続けました。

 最初は根室を目指したようですが、海が荒れそれを断念して、おばあちゃんの実家があった尾岱沼に上陸したようです。途中は危険を感じたという事で、馬を乗せた船を切り離して諦めたという事でした。ソ連兵に見つかるかもしれないと言う恐怖と、寒さのため、命からがら逃げるようにして、島を後にしました。

 私は、こんな話を幾度となく聞いてきましたが、母は話をする際、必ず「家があった場所は、ポンタロだ。」と、言い切ります。私も、北方領土に関連する施設に立ち寄った時など、事あるごとに、「ポンタロ」を探しました。書籍や、インターネットでも調べました。しかし、見つかりませんでした。

 ところが、連盟の名簿と連盟が発行した居住図によって、母の生まれた土地、母の故郷の正式な名前を知ることができました。勿論、家族の名前は連盟の名簿には記載されていましたが、出身地は「国後島 泊村クシナイ」。
<名簿表示>
<地図表示 地図説明>
 母の記憶にあった通り、周りに民家はなく、すぐそばに「クシナイ川」が流れていることを、地図で確認することができました。

 母方の実家は、引揚後、今でも尾岱沼にあります。
<標津・海写真表示>
 父と結婚した後、中標津町に住むことになったわけですが、当然、中標津と尾岱沼を行き来する際、帰る事のできない自分の故郷を目の前に見ていたのだろうな、と思います。

 では、母の記憶にある「ポンタロ」とは何なのでしょう?

 母の記憶にあった「ポンタロ」は正確な名称ではなく、正式には「ポンタルベツ」で、そこには母の祖母、私にとって「ひぃばあちゃん」が、住んでいたこともわかりました。地図には片仮名で示されていますが、叔母さんの話だと、当時は「本樽別」と、漢字で表記していたようです。
<グーグル地図表示>
 母が言うには、泊の学校へ毎日歩いて通い、夜になると泊の灯りが浜沿いに見えていたとのこと。恐らく、平日はおばぁちゃんの家から学校に通い、休みの日には、自宅に戻っていたのではないかと思います。

 母は、今年78歳、もうすぐ80歳になります。その母に地図を指さして、「ここが生まれた場所で、クシナイだ。」と、説明するには難しいものがあります。現状で、自由に島に渡ることができない状況では、母に生まれた場所の説明ができません。また、自分の生まれた場所、育った場所の名前を、ずっと間違えたまま覚えていた事について、本人がそれを確認する術がなかったことは、到底自然なこととは思えません。

 「島に自由に渡り、いつでも自分の故郷を確認できる環境を整える。」
そんな状況になることを、願ってやみません。

 とはいえ、願っているだけでは何もできません。島が不当に占拠されて69年が経過し、今なお自由に行き来することができない。母は、きっと今でも、ポンタロが自分の家だと信じています。そんな現実がある以上、島が戻るまで、どんな状況であろうと、誰かが返還運動を続けなければいけません。

 私は、平成14年、中標津で開催された「現地青年の集い」に誘われたのがきっかけでこの返還運動に携わるようになりましたが、実際のところ、自分に何ができるのか判りません。しかしながら、この10数年携わってきたことが少しずつ成果を上げていることもあるのだと思っています。

 現在中標津支部青年部では、3つの事業を柱に活動しています。
<事業紹介表示 落語まで 事業説明>
 これらの活動は、どれも直接的に島の返還に繋がるものではありませんが、連盟の外に対して情報を伝える手段としては、非常に効果的だと思っています。

 今年2月、安倍総理のロシア訪問で、この問題が進展すると期待されましたが、クリミア問題の影響で停滞感がぬぐえません。しかし、拉致問題や竹島・尖閣の領土問題同様、北方領土も毅然とした対応で、交渉してほしいと思います。

 そのためにも、現状をより多くの国民に知ってもらうことは、重要な返還運動の一つと考えています。同時に、情報を伝える手段の一つとして、インターネット・ITを活用することは、有効であると思っているわけですが、もし、自分自身でもできる返還運動があるとするならば、このような活動であり、それが自分の役割なのではないかと、思います。みなさんも是非、「日本の領土問題」として認識していただき、関心を持っていただければ幸いです。

<最後表示>
 お聞き苦しい点はあったと思いますが、ご清聴いただき、ありがとうございました。

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