宮脇 田鶴子

 私は志発島出身の2世ということになっています。

miyawaki-taduko.jpg 私の父母は教員でした。家族構成は父、母、兄1人、姉2人、私に妹1人の7人家族でしたが、兄は15歳で、姉の1人が1歳にならずに亡くなっておりますので、3姉妹で通っております。
私からが2世で姉は5歳でしたが元島民の1世になります。
父母兄姉が歯舞諸島の中の志発島で終戦を迎えましたので、父は志発島に赴任する前国後島、択捉島にも赴任しておりましたが、志発島出身になっております。

 昭和52年に刊行されました「千島教育回想録」の中で、これは北方四島の教育がどのようであったか、島が帰ることを願って元島の教員であった人達が島での教員生活に思いを馳せ寄稿し編集されたものです。父は、当時の島の教育は不振で島に行くことは左遷か何かの事情がなければ行かない状況であったと記述しております。しかし、父は教職についた2年後に行った国後島での教員生活が大変よかったようで、その後も島行きを希望し択捉と志発と赴任したようです。
若い父が一生懸命やれば、やったことに答えてくれる島の人々との交流がとても魅力だったようです。

 父の島への思い入れは転勤者のそれではなく、住民としての思い入れで島が帰って来たら「又行く」という言葉でした。僅かしかない写真や寄稿文を書いている時等、必ず言っておりました。

 30年9月に千島歯舞諸島居住者連盟が発足しております。22年経った52年に中標津支部が出来ましたが、その前の年に父が亡くなっております。支部の発足総会の連絡が来たときに、なぜか「父の変わりに行かなくては」と元島民の母ではなく私がそう思ってしまい、それ以来後継者として支部の活動に関わっております。

 母の島での生活は父との結婚で暮らした志発島だけですので、父ほどの思い入れはなかったようでした。終戦まぎわに1歳の誕生前の子供を麻疹で亡くしたということがあるのかもしれません。
高齢になってからですが「墓参に行くなら一緒に行くよ」と聞いたこともありますが「行きたくない」と答えておりました。

 島の事を詳しく父から聞いたわけではありませんし、当時の私には島の事を詳しく知りたいという思いもありませんでしたので、只〃「島の暮らしはよかった、俺がこうやりたいと言ったら快くやってくれたし、やらせてくれた」と言っていたことぐらいしか覚えておりません。
只それだけなのですが、父が亡くなったことで、父のその思いをそのままにしたくない、という気持ちに私がなってしまい、それ以来千島連盟の会員としての今の私がおります。

 父の思いだけで会員となりましたが、私の北方領土についての知識は今のように学校で教育があったわけではありませんので父の話しかありません。住んでいた島から、戦争に負けたことにより島に留まらずに逃げてきたこと。ソ連兵が来るからと島を脱出する人に妻子を頼み、自分は島に残ったが、根室教育局に今後どうすればよいのか連絡をとったが返事が来ず、9月まで待ったが無しのつぶて、島に帰るつもりで脱出してきたが、戻らなくて良いと言われたこと。
そして、翌年の4月新任地が決まるまでの歯舞での避難生活の事。
それと、島がソ連に占拠され、不当に取られたのだから返せと言っているのだ、というぐらいの知識ですから、実質的に現実味のある活動が出来るものではありませんでした。

 それが。。。

ビザなし交流が始まり、その最初の年の最終ビザなし交流に色丹島に行って来ないかと言われ参加したことや、6年前母も亡くなったのですが、墓参にも行かなかった母ですが、その母の死により、父母の住んでいた島、姉が眠っている島がどんな所だったのか知りたいという思いに駆られ、元島民の姉に一緒に行こうと誘い墓参に参加しました。

 一度目は志発島がどんな島なのか見たさに東前という所に、二度目は家族の住んでいた西前に行ってきました。志発島は真っ平らな島なんです。国後や色丹には山や丘がありました。でも志発島は本当に真っ平らで木もないのです。くぼ地や沼、川はありますので高低はあるのですが、海抜何メーターの高さなのでしょうか、海から見ても真っ平ら、浜から上がっても向こう側が見えるのでないか、という感じで平らなのです。北海道の広く平らな所でもどちらかの方角に山があるという景色しか見慣れておりませんので、すごく不思議な感じがしました。

 東前には監視塔がありませんが、監視兵が来ることになっていますので、慰霊祭が終わった後、いつその監視兵がくるか不安を持ちながらも自由に散策してきました。西前は監視兵舎と監視塔がありますので常に見張られているという緊張感はありました。又、カメラを兵舎に向けてはいけないという制限はつきましたが、比較的自由に散策してきました。今年は自由訪問で志発島に行けることになりましたのでもっと自由に歩いてこれるのではないかと思っています。

 昨年の墓参は天候に恵まれました。乗っていった船が監視船というか取締船だったこともあるのでしようが、操舵室に入ることができ、海図やロシアとの無線のやりとりを聞いたこともありますが、この狭い間(北海道と北方四島の間)に中間線があり、決められた中間点を通らなければならないのです。ビザなしでも一度目の墓参でも必ず古釜布に立ち寄り、それから目的地に行くのですが、此の時は古釜布に寄らずにこの中間点を通ったのですが、「これから通ります。」と位置を確認させてから通過するのです。なんでこんな所が国境なのという感じなのです。根室や納沙布が目の前で、又多楽、志発島がすぐそこにあるのに何でと思ってしまうのです。

 ビザなしや墓参に参加する度思うことですが、陸上では感じられない感情が洋上でおきます。
『この近さは何なのか?こんなに近い島がなぜ日本でないのか?日本人が住んでいた島を、戦争に敗けたとはいえ島に残った島民を強制的に排除し、ロシア人家族を島に送り込み住まわせた行為を理不尽な行為で無いといえるだろうか』
 これは決して元島民だけの問題でなく日本人として日本の領土を返せというべきだと思うのです。
 署名活動をしていて言われることですが、「あなた方が一生懸命そんな事をやったって、島なんて帰ってこないよ」といわれても返す言葉が出ませんでした。なぜ違うよと言えなかったのか。

 今なら言えますが。
後継者である私も認識不足でしたから、島に関係のない人が関心がないのは当然かもしれません。でも、それで良いという問題ではないはずです。国の問題、国民の問題のはずです。
 元島民の後継者として私たちがすることは、皆様に関心を持ってもらうよう運動していかなければならない事だと思っています。
 元島民が少なくなってきている今、島での暮らしをお話することは出来ませんが、島を返して欲しいと叫び続けている元島民の思いを継承していかなければならないのだと思っております。
 元島民が年々高齢になって活動できなくなっています。この返還運動をいつまで続けなければならないのか、というジレンマはありますが、やって行かなければなりません。

 根室管内には1市4町に支部があり、その支部のなかに青年部という後継者組織があり、親支部の支援を受けながら、この流れが途切れることのないよう様々な行事に参加したり、計画したりしてこの問題が終わりにならないよう頑張っています。このパネルもその一つとして作りました。
 どうぞ、皆様も少しでも北方領土に関心を持ち、一日でも早く領土返還が実現できるよう応援下さるようお願いいたしまして、つたない語り部で本日の主旨に沿っていたかどうか疑問ではありますが、終わりといたします。

 

 ご清聴ありがとうございました。

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