宮脇 田鶴子(2011.07.26)

元島民二世の訴え
北方領土の早期返還を求めて

志発島元島民二世 宮 脇 田鶴子 さん


 こんにちは。宮脇田鶴子と申します。北海道は大まかに4分割され、道東、道北、道央、道南と言われており、その中の道東は網走管内、根室管内、釧路管内、帯広管内が入りまして、根室管内のほぼ中央に位置します中標津というところに住んでいます。世界遺産の知床国立公園、ラムサール条約の釧路湿原、霧の摩周湖、マリモの阿寒湖には1時間から2時間ぐらいで行くことができます。東京便も1便ですが飛んでますし、千歳からは3便飛んでおりますので、どうぞいらして下さい。


 私の家族は5人家族ということになっていますが、姉の一人が志発島で生まれてすぐに死んでおりますし、兄が15歳で亡くなっており、父、母、姉、私、妹の5人家族で暮らして参りました。今では父も母も亡くなり、3人姉妹だけになっております。


 父母共に教員でしたので、職場結婚となりますが恋愛ではなく、紹介による結婚でした。昭和13年に結婚いたしまして、17年に志発島に行き終戦まで住んでましたので、兄・姉までが元島民、私と妹が後継者となってます。


 母は結婚して志発島に来たので、子供の時から住んでいた方々とは違う想いかと思いますが、志発島で生まれて直ぐの娘を亡くし、墓まで建ててますのでそれなりの想いはあったのではないかと思います。父は、昭和4年に教員になり昭和6年に国後島に行きました。昭和10年までの4年間、泊の国後尋常高等小学校に勤務し、昭和12年から13年までの1年間、択捉島紗那の紗那尋常高等小学校に勤務しました。そして、昭和17年から20年の終戦まで志発島の西前にあります志発島西前国民学校に勤務してました。


 教員になってからの島との関わりなので、母同様子供の時から住んでいた元島民とは違う想いであろうかと思いますが、別の角度で想い入れが強かったようです。父は、昭和51年に亡くなっておりますが、私が若かったことや後継者としての自覚がなかった事もあり、島での詳しい話は聞いてませんでしたので、今になっては色々聞いておけば良かったと思ってます。


 ただ、昭和46年から48年にかけてだと思いますが、北方四島に勤務していた教員達が千島諸島での生活や教育状況を書き留めておこうと「千島教育回想録」を作成すべく、その原稿書きをしている時だったと思うのですが、父は「島での生活は良かった。暖かくて、川で泳いだり、スイカを食べたり、子供達のために道路を作ってくれと言ったら作ってくれたり、とても良い所だった。島が還ってきたら、また絶対行くんだ、行って暮らすのだ」と言ってました。このぐらいしか聞いた記憶がなく、後継者としてこの程度しか聞いてないというのは心許ないのですが、その言葉が今私が活動していることに繋がっています。


 父の島への想いを、「千島回想録」に依るところではありますが、少しお話しをさせていただきます。


 国後島の資源は蟹、サケ、マス、ホッキ、鱈、昆布と豊富で、お金を出して買うことがなく、皆貰って食べていたそうです。また、教育についても、器械や施設が充実しており、図書においても他の学校にはない貴重な蔵書があるなど父兄の理解があり、援助協力が惜しみなくやればやるだけの成果が上り、充実した日々を送ったようで、そうした日々が忘れがたかったのだと思います。


 そして、2年後に択捉島に行っています。択捉島は国後島より北にあり、海流の関係だと思いますが国後島より暖かく、スイカが生り夏には川が温水プールになったそうです。サケ、マスはもとより、鯨も捕れたため捕鯨場もあり、国後島以上に豊かな島だったようですが、学校火災という不祥事が原因で1年で転勤になってしまいます。戦争が激しくなり、これで良いのかと満州派遣教員を希望しますが、志発島行きを命じられ赴任します。


 志発の島民は、ほとんどが昆布採取業者でしたが、その他にホタテ採取業者がおり、日魯かに缶詰工場や加里塩工場もあり、国後島に負けない資源がありました。また保護者の理解と協力もあり、教育の成果が上がり父にとっては桃源郷だったと書いてあります。子供達のために、冬の寄宿舎を作って欲しいと言ったら作ってくれ、その頃は島の周囲に道路があるだけで、遠くの子供たちは嵐や高波になると学校に来られなくなるから内陸に道路を作って欲しいと言ったら、父兄の力で1日で作ってくれたこと等。教育に関する事をしたいと言ったら協力してくれる、こんな教育者冥利に尽きることはないと思います。


 終戦になって、ロシア兵が上陸して来て日本兵が国後島に引き上げた時、後々島民も危害を加えられるかもしれないから、一時根室に避難しようということになり、何隻かに分けて避難したそうです。その中に、母と兄、姉を頼み、父は学校を守るため残ったそうです。子供たちはおりませんので、ただ番をしている状態だったようです。


 今は教育局と言っていますが、当時は学史と言っていたようで、これからどうしたら良いかと再三指示を仰いでいたようですが返事がなく、ちょうど根室に行く船があり直ぐ帰るつもりで、残っている人達に何も言わずに根室に来て教育局に行ったところ「もう帰らなくても良い」と言われ、そのまま根室に留まってしまったそうです。


 その頃、一時避難していた人達は持ってきた食料が底を付きだし、「これからどうしようか?島に帰ったら食べ物には困らないし…」と島に帰りだしたそうです。子供たちも島に帰ってくる中で、父に戻ってくれという話があったそうですが、戦後の混乱した教育現場の中で、戻らなくても良いと言われた事もあったと思いますが、父は戻らなかったのです。その時はそれで良かったのだと書いてありますが、そのことが余計に「島が還ってきたら、もう一度島に行って教育をするのだ」と言った言葉にながったのではないかなと推察します。


 昭和51年に父は亡くなりますが、52年に千島連盟の中標津支部が設立されます。その設立総会の案内文書が来た時、行くのは当然母が行くべきなのですが、母は行かないのです。都合で行けなかったのかもしれません。そして何故か私が行くのです。

 「島が還ったら帰る」この言葉を聴いてなければ、行かなかったと思うのですが。父の代わりに行かなければならないと思ったのです。それで「良く来たね」という事だったのか「ビザなしに行かないかい」「研修会に行かないかい」と言われ、参加しているうちに今になっています。


 平成元年に、中標津支部青年部は出来ているのですが、新たに後継者として青年部の活動を始めたのは平成16年からになります。管内には1市4町ありますが、それぞれ各支部があり青年部があります。元島民が段々少なくなって行く中、「我々が後継者として何かして行かなければならないのではないか」と管内青年部連絡協議会を作り、事業や研修会を行い、元島民の想いを継承して行こうとしています。中間地点まで行き、北方領土をより身近に感じて領土問題を青少年に考えてもらいたいと、洋上セミナーをやっていますし、道内を回りながら署名活動をし各市町を表敬訪問して歩くキャラバン隊活動も行っております。


 平成4年からビザなし交流が行われていますが、その最初の年に色丹島に行ってきました。志発島にはロシア人が住んでいませんので、ビザなし交流で行くことはできません。行くには自由訪問か墓参しかありません。父母の住んだ島、姉が死んだ島、墓は建てたといっていましたが、あるかどうかわかりません。母が生きているうちに一緒に行けば良かったのですが、亡くなってから4度ほど行っています。


 色々と活動してますが、署名活動に参加するようになってから冷たい反応に会いました。


 地元では、夏と冬に行っているお祭りの中で、署名コーナーを設けて署名してもらっています。元島民の方々でやってましたが、高齢になってきたことで後継者も手伝いで参加するようになりました。初めて参加した頃、3分の1ぐらいの人達にそっぽを向かれました。「あんた達のためになんで署名しなければならないの」という感じでした。それまで、元島民の人達が署名活動をしているのにです。「これって何」という感じでした。そのうち研修会等で歴史的な事とかを勉強していくうちに、後継者だから当然と思ってやってきたことですが、「これって元島民と後継者だけの一部の人達の問題なのだろうか?領土の問題なのだから国の問題なのではないだろうか?国民の問題として皆でやらなければならないことではないだろうか?」それにはもっと北方四島の事について皆様に知ってもらわなければなりません。


 今、領土交渉は以前より後退している感がありますが、それでも風化させるわけにはいきません。中心的に動いて行けるのは、我々元島民と後継者になるのでしょうが。島に還りたいと言っていた元島民の想いを、後継者として語り継いでいかなければと活動して行きます。

 最後にどうぞ皆様、日本の領土問題として考えてください。そして領土返還の皆様の声を大きくしていただけると嬉しいです。ご静聴ありがとうございました。

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