田中 晴樹(2012.06.22)

ご来場の皆様、お晩でございます。
只今紹介頂きました、社団法人千島歯舞諸島居住者連盟中標津支部青年部副部長の田中晴樹と申します。

今回4回目となる北方領土語り部&寄席イン中標津でございますが、いつもは司会者の立場で、皆さんとお会いしておりましたが、とうとう舘下部長より、「今回はお前がやれ!!」という鶴の一声で決定してしまいました。

普段の司会と違いまして、ところどころ噛んでしまい、スムーズに行かないこともあるかもしれませんが、よろしくお願いします。

また今回お話をするのは、平成9年9月にビザ無しで、択捉島へ行った時の体験をお話します。何しろ15年前の話なので、新鮮さもなく、がっかりされるかたもいるかもしれませんが、最後までお付き合い下さいますようお願いします。

そもそも私が、この千島連盟に加入したきっかけは、当時、中標津町商工会青年部に在籍していた時に、舘下部長との会話の中で、たまたま父が択捉島に住んでいたらしいと教えたのが始まりで、その時に部長が「晴樹、近々養老牛温泉で、無料でお食事できる集まりがあるから来ないか?」と誘われ、無料でお食事が出来るなんて、すごい集まりだと思い、二つ返事で参加することにしました。

実はこの誘いは、舘下部長の作戦で、部長は一緒にこの返還運動に携わってくれる若い人を探していたのです。以来私たちはずっと、この返還運動に携わって参りました。本日も会場の受付にて、北方領土返還要求の署名をご用意いたしておりますので、ご協力頂きますようお願いいたします。< /p>

また、お話だけでは、皆さんも飽きると思いますので、スライドも用意致しました、話に飽きた方はスライドの方を見ていた下さい。

それでは本題に入らせて頂きます。

最近は中標津の開陽台にもそれほど行かなくなりましたが、開陽台から見える国後島は、なぜ北海道の一部では無いのかが疑問に思うほど近くに見えます。近くて遠い島、それが北方領土という認識でした。父が他界してから7年が発とうとしていますが、父の故郷は択捉島の留別村です。祖父母は函館の南茅部町から択捉へ渡り、祖父は日露漁業で船頭をしていたらしいです。

父から聞いた択捉島は、鮭が豊富に捕れ、川が魚だらけになり、棒を差し込むと、その棒が立ったまま動いて行ったらしいと言うことです。冬は鮭の皮が長ぐつのスパイクの代わりをしていたそうです。私は子供のころに、このような父の話を半信半疑で聞いていたような気がします。

それらの思いを胸に、平成9年9月、出発の日が来ました。根室の花咲港を出発、しかし道中は険しく、大変な揺れが来て船が倒れるのではないかと思うほどの横揺れが始まり、私はベッドに横になりました。あまりのめまいで、眼鏡をはずすのを忘れ、大きく傾いた拍子に眼鏡を折ってしまい、セロテープで止めて、何とか事なきを得て、出発から13時間後には択捉島の内岡に到着しました。そこから軍用トラックに幌をかぶせた、まるで捕虜になったような気分でバスに揺られました。30分かけて紗那の行政府を訪問いたしました。現在はわかりませんが、当時、島には舗装道路が1ヶ所もありませんでした。島の雰囲気は私が生まれた昭和30年代の北海道の田舎のようでした。

行政府を出て、一行は天寧というところに向かいました。ここはソ連の軍事施設があったところで、平成9年当時としては、訪問団の視察が許されるのは初めての場所でした。

天寧に行く途中に、なんと父の育った留別村がありました。ありましたというより、存在していませんでした。通訳の人に聞くとあそこが留別村の跡地だと言われ、がっかりして気持ちが萎えてしまいました。バスに揺られること1時間半、今では廃墟と化した天寧が見えました。ここには日本の墓地があるということでしたが、それらしき物は見当たらず、とりあえず黙祷をささげ、民間飛行場へと行きました。そこはブロックが敷かれた滑走路で、本当に飛行機が発着しているのかと思うほどひどいものでした。当時は軍事大国だったロシアの面影はなく、壊れたミグ戦闘機の残骸がそれを物語っていました。

その後、ホームスティ先のガリーナさん宅へ向かいましたが、途中の川では、鮭が群れを成して飛び跳ねておりましたが、父から聴いていたほどの魚の群れは発見できませんでした。ガリーナさん宅ではロシア語のハンドブックを片手に沈黙が流れることの繰り返しでしたが、途中、通訳の人が来てくれて30分ほど会話が進みました。しかし、ホームステイ先では領土問題にはあまり触れないよう言われていたため、立ち入った話はほとんどできませんでした。

翌日は紗那の町で博物館、地震で壊れた診療所(当時、日本企業が修復中でした)、アメリカ企業により建設中の学校等を見学して、別飛村へ向かい、幼稚園を視察しました。子供たちが歌ってくれた「上を向いて歩こう」が訪問団を楽しませてくれました。その後、水産加工場を視察しましたが、この工場は択捉で一番活気があり、ベルトコンベアーに追われながら必死に働いている姿が印象的でした。

その後紗那に戻り対話集会へと向かいました。たくさんのロシア人が出迎えてくれました。その中で古くから住んでいるという老人が「なぜ、日本人は外国軍を配備しているのか?」「領土が日本に戻れば、あっという間に魚が乱獲されて、居なくなってしまう」「この問題は子孫が解決してくれる」というような発言がありました。

しかし、このような発言こそ領土問題を先延ばしにしてきたロシア人の本質であると感じました。なぜなら、ほんの少しでも、この領土問題が発展性のある話し合いになりかけた時には、必ずと言っていいほど棚上されたり、または指導者が変わって元に戻ってしまうことの繰り返しだったと思います。

特に当時のロシアの大統領はエリツィン大統領で、故橋本首相とは大変友好的でしたので、日本でもこのエリツインさんの時に何らかの解決をと意気込んでおりましたが、現在、領土交渉は特にこれといった進展もなく、昨年はロシアの大統領として初めてメドベージェフ大統領が国後島を訪問しました。あの時、私はこれで北方領土問題もロシアに取られたまま終わるのかな?と思いましたが、今年プーチン大統領が再任され、日本の柔道になぞって「引き分け」「始め」と日本向けのパフォーマンスはしてくれましたが、今の日本の政府だとどこまで詰めることが出来るのかは解りません。

と先日この原稿を書き終えたところで、メキシコ・ロスカボスでの野田首相とプーチン大統領の初会談の記事が道新に掲載されました。

この中でプーチン大統領は先の「引き分け」発言の真意については沈黙を守り、日本側も玄葉外務大臣を7月にもモスクワを訪問する方向で合意をしたとありますが、結局は「外交レベルで実務的に交渉しよう。」と少し距離を置かれた感じはぬぐい去れませんが、私たちは少しでも進展するよう期待するしかありません。

これからは、尖閣諸島の様に日本の世論を盛り上げるのは、なかなか難しいかもしれませんが、私たちは元島民の2世として、四島の帰属をはっきりとロシアに訴えつつ、返還運動を盛り上げていきたいと思っております。

最後になりますが、2世と言われている私たちも、40代半ばから50代後半、60代になろうとしております。私が舘下部長に誘われた時のように、さすがに無料での呑み食いは出来ないかもしれませんが、一緒に活動して行く、3世、4世を探しておりますので、知り合い等で3世、4世の方がおりましたら、是非紹介して頂きたいと思います。

本日は、最後までお聞き頂きましたありがとうございました。

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