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語り部事業(宮脇田鶴子)

2012年12月5日 語り部事業

皆様こんにちは。宮脇田鶴子と申します。
先ず自己紹介をさせて頂きます。北海道は道 東、東の方に根室管内と言う所がありまして、 世界遺産があります羅臼町、標津町、中標津 町、別海町、そして根室市と言う1市4町で 成り立っております。その中間地点にありま す中標津町と言う所に、現在私は住んでおり ます。
姉妹は3人おります。父、母と一緒に住ん でいました。母も元島民で、父が昭和52年に 亡くなりまして、その後に千島連盟の中標津 支部が出来ましたが、その時、母の都合が悪 かったのかどうかは分かりませんけれども、 父の代わりに私が行かなければならないと勘違いしまして、出席しました。その後、色々な行事に参加をさせて貰いまして、今現在に至っております。
平成18年か19年頃になるのじゃないかと思うのですけれども、この語り部の登録をさせて頂きまして、まだ4~5回位しかしていません。未熟なお話しか出来ませんので、お聞き苦しい所もあると存知ますけれども、約20分間頂いております。その中でどれほど話せるか分かりませんが、どうぞ宜しくお願い致します。
まず、父は明治43年生まれで函館師範卒業です。母は大正3年に生まれておりまして、小田郡双葉女子女学校を卒業致しました。その後、それぞれ根室管内に教員として赴任して参りました。そして昭和6年から10年まで、父は国後島に4年間赴任致しました。その後、「校長にしてやるから結婚しなさい」と言われまして、昭和13年に母と結婚を致しました。そして昭和17年に志発島に母と赴任致しまして、終戦を迎えました。そのため父、母、姉が元島民、私が後継者と言う事でこの活動を行うようになりました。
北方領土は資源の豊かな所で、昭和6年から10年まで勤務しました国後島は、父に言わせると、とても良い所だったそうです。資源は豊富で食べる物には困らない。教育者として教育して行く上で、島の人達の人柄が素晴らしかったと言います。教育者として何かをやる時に、全て受け入れてくれた。教育者冥利に尽きる、と言う事を言っておりました。
そして、国後島から転勤して根室に来ましたけれども、また島に行きたいと言う事で、択捉島に行っています。戦争の色が濃くなった時なんですけれども、また島に行ったと言う事で、如何に島が好きになってしまったかと言う事がお分かり頂けるかなと思います。
北方四島と言うのは、国後島と択捉島そして色丹島と歯舞群島と言う小さな島々でなっているのですけれども、歯舞群島の中でも一番大きい島が志発島になります。約60平方キロメートル、終戦時には374戸、人口が2,249人居たと言う事です。
終戦を迎えまして、9月3日にソ連軍が志発島へ上陸して来たそうです。その時、軍隊は国後島に引き揚げ対戦してくれなかったそうです。軍隊はもう国後島に引き揚げてしまった。それで婦女子は、ロシア人に何かさ れると嫌だと言う事で、裏山に逃げたり、2~3週間島を離れると良いのじゃないかと言う事で、2~3週間の食料を持って根室に船で逃げました。その時に、うちの母と姉がその方達と一緒にさせて貰って、逃げて来ました。
父は、学校を守らなければならないので残りました。残りはしましたけれども、生徒がいないですから、学校を再開するにも出来ない。それで「これからどうしたら良いか」と言う事を、根室の教育局に再三に亘って連絡を取ったけれども、全然「こう言うふうにしなさい」と言う返答が返って来なかったのだそうです。
そして2~3カ月しました時に、もう埒が明かないと言う事で、ちょうど根室に来る船がありまして、残っている先生方には何も言わないで、それに乗せて貰って根室の教育局に行ったそうです。そうしたら、「もう帰ら なくて良い」と、「島に戻らなくても良いよ」と言われてしまったので、父はそのまま残ったと言う事です。
昭和33年頃、千島連盟が出来ました。返還運動が盛んになって来ておりましたけれども、その中で父達も千島連盟回想録や、島の生活を忘れちゃいけないと言う事で色々と物を書いたりしておりました。その中で、「島が返って来たら、もう一度島に行って教育をし直すんだ」と言う事を言っており、私は小さい時から常々聞いていましたので、その事が支部が出来た時に私が行かなければならないと思った要因なのかなと思っています。今になって何で行ったのだったのかな?といつも不思議に思うのですけれども、これも何か惹かれるものがあったのかなと思っております。
最初の頃は、何も分からずに参加をしてました。北方領土がどう言うものかと言う事も、島を捕られたと言う事も何も分からずに参加をしていました。その時は、元島民の方も若くて活動をしていましたし、参加をするだけで良かったんですけれども、10年、20年と参加をしても、いつまで経っても返って来ません。そしてその内に、元島民の方も段々亡くなったとか、高齢になって来て色んな所から手伝ってくれないか、と言う事になりました。夏・冬に署名活動をやっているのですけれども、そこにも手伝ってくれと言う事になって、行くようになりました。
署名を皆さんに呼び掛けるのですけれども、署名して下さる方もいます。でも、中には「何をやっているの!こんな事をしたって島は返らないよ」、「あんた達のために何で署名しなきゃならないの!」と言われるのです。「あんた達のため」なんです。「元島民のため」なんですよ。そう言う言い方をされまして、返す言葉がありませんでした。何も分かりませんでしたから。でも、それでもやっていました。色々な行事に参加しながら、色々勉強して。
「戦争に負けたんだから仕方がないでしょう」、「当たり前でしょう」、ロシア人もこの頃言いだしてます。戦争で獲ったんだから日本に返さなくても良いんだと言う事を。
けれども、この返還運動に後継者として携わって、色んな事を勉強して行く内に、元島民だけの問題じゃない、日本の国の問題であって日本の領土の問題じゃないかと思うようになって来たのです。だから、元島民の人達が帰りたいのはやまやまなんですけれども、元島民だけのためじゃなくて、日本国の領土の問題なのですよね、と言う事は日本国民全員が考えなきゃならない、そう言う事だと思うのです。
それで「国民の問題だよ」って言えるようにならなければならないと思います。元島民の方達が高齢になって来ます。私達も段々年を取って来て、もう戦後67年ですから60歳になって来ています。だから、段々動けなくなって来るので、早く何とかして欲しいと言う気持がありますけれども、その思いを「皆さんこうなんですから、是非、お願いします」と声を大にして言えるのは、やはり元島民です。こう言う所で「私達の問題じゃないですよ、国民全体の問題ですから一緒に考えて下さい」と言う事を言えるのは、私達なのかなと思って、参加をさせて頂いています。
そしてその中で、元島民の人達は領土返還の実現を願っていますけれども、私達後継者はその元島民の願いの返還と、国民の領土への関心を廃れさせないように、より関心を高めてもらう事をやって行かなければならないのじゃないかと。それが、私達後継者の使命じゃないかと言う事で頑張っています。
そして若い子供達にも、北方領土の事に少しでも関心を持って貰おうと思いまして、今年は「エトピリカ」と言う新造船が出来ましたのでそれを使いまして中間地点まで、北海道と北方四島の間の中間地点の近くまで行って、国後島しか見えませんけれども、こんなに近いんだよ、と子供達に少しでも北方領土への理解を深めて貰おうと思って洋上セミナーという事業を取り組んでいます。
署名活動をやっていて、北海道民の方ですけれども北方領土問題に対して関心を持っていない人がいるのです。「あんた達のために何で署名をするの」って言う人達もいますから、そういう人達を少しでも少なくして行かなければいけないと思いまして、キャラバン隊を組みまして道内を周りました。
北海道内は広いです。北側、中央、東、南、函館方面、西と言うように道内の各市町村を周って、市長を表敬訪問をしたり、その地区で署名活動をしたりしながら周りました。今度は北海道が終わったのだから東北に行こうと言う事で、皆さん働き盛りで中々暇を取れる人がいないのですけれども、土日を挟んだら何とか行けるだろうと言う事で、今年は青森県を回りました。青森市と弘前市の2カ所程で署名やって参りまして、月曜日の朝、表敬訪問をして帰って来ました。
お金が余りありませんので、一年置きに道外に行こうと言う事になって、来年は北海道、再来年は東北をまた周りますけれども、何処になるか分かりません。もしかしたら新潟にと言う時があるかも知れませんので、その時は宜しくお願いしたいと思います。
後継者としてそう言う事でお願いをしておりますけれども、根底には国民の領土なのですよ、と言う思いがあってやっております。北方領土は元島民だけの問題ではありません。どうぞ、国民全員の問題なのだと言う認識を持って頂きたいと思います。そして皆様方には返還の声を大きくして頂き、国に肝を据えて返還交渉をしなければ駄目だと思うように取り組んで頂きたいと思います。どうぞ皆さん、宜しくご理解の程、お願い致します。

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